総社市ですが高梁川より西側。
奥場古墳群の
2号墳で径26mの円墳
ちょっと判りづらい所に位置します(^^;) 公称石室全長11.6mですが現状は8.5mほど。
南向きな開口部、計算上羨道は3mくらい消失。。。
↑クリック 縦画像羨道幅は1.4mほど h=1.3m
↑クリック 内部から羨道石室内部。状態は◎(^_^)
↑クリック やや奥から
玄室~ d=5.5m w=1.9m
h=2.4m
↑クリック 縦画像
...with 天井
側壁...3段基調
↑クリック 逆サイド浪形石製の家形石棺【約2m×1m×1m)】
↑クリック 上から奥壁は一枚の鏡石
↑クリック 縦画像家形屋根より現世を望む。玄門は右片袖式
↑クリック 縦画像
...with 天井
道標も案内板も何もないです
■Point_Link by GoogleMap
ホント苦労しました。前もってのリサーチで場所はなんとなく判れど経路が不明。
現地に到着しても全然判りません。ひとに訊こうにも民家はあれど誰も見あたらない(笑)
あるお宅に伺って教えて貰った経路がまた難しく道が途中でなくなってしまった。。。
完全に遭難(^ ^ゞ...30分くらい雑草と戦ってしまいました。
石室内部はかなりいい感じ。カマドウマ君もいっぱい(^_^)
家形石棺はもちろん井原産の浪形石(ココだと井原は近い)
もはや来た道は判らないので進路を逆に降りてみると3分くらいで下界へ(^^;
道標欲しいよなぁ。。。
すぐ下に1基ありますが石材抜かれてる・・・・<横穴式だったっぽい
↑クリック 上から
おふれこ画像・・・約40年前の石室内は↓こんな状態だったらしい・・・

- 2007/09/11(火) 04:24:38|
- 総社市内
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西平先生アトリエでの新納先生のレクチャで久しぶりにお会いでき、楽しかったです。
先週、秦地区の方に教わり、金子石塔塚をはじめて見学いたしました。和気さんが推すだけあってあのような密かな尾根に、1400年前のほとんど破損のない石棺が設置されていることに驚きを覚えました。
牟佐大塚の被葬者が旭川と古代山陽道の通行権を掌握したのと同様、高梁川の通行権を掌握していた首長が葬られたのでしょうか。興味は尽きません。
- 2013/06/15(土) 16:37:42 |
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- 九鬼 久典 #-
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ほぼ隅から隅まで……いっぱいご覧くださったようで、ありがとうございます。
先人方や書物等でいろいろ“ささやかれて”おりますが、
それぞれ~ちょっと考えてみると色々愉しゅうございます(^_^)
金子石塔塚の石棺、たしかにアレがあることは偉いひとではあるのでしょうが、
時期的に、こうもり塚と江崎古墳の間です。
井原の波形で石工さんが石棺を彫り続けてたら1つや2つは出来てしまいます(笑)
できちゃったものは何処かへ納めねばなりません(^^;たまたまその時期だった・・・だけ?
たまたまそのとき無かった・・・だと箭田大塚古墳の石棺が
より井原に近いにも関わらず波形ぢゃないのも説明が付きます。
どんなに偉くても、そのタイミングで入手できなければままならないのですから。
こんな理由を挙げだすと笑われるのですが、、、、
実際、金子からそう遠くないところに同時期らしき、より立派な石室があります(浦越3)
もちろん石棺ないのです。
このあたり(他要因)も含めての整合性を考えていくと、
ワタシ的には意外とそんな単純なところへ行き着いてしまうのです(^^;
まぁ、それでは“それらしい論文”にはなりませんけど、
論文のために当時の人が生きてたわけではありませんので♪
“通行権の掌握”もよく云われることですが、
ではそれってなに?当時それが行使できたの?メリット何?デメリットは?違反した者への処遇は?厳しいと誰も来てくれなくなりはしないか?・・・つづく(^^;
考え出すと私の中での整合性はドンドン崩れていきます(汗
- 2013/06/16(日) 22:02:48 |
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- かまどねこ #YZygDJcY
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