古墳奮闘

   古墳絵日記……GoogleMapにピンリンク~続きを読むでプチ感想・情報

金子古墳群=追記

総社市秦、改名して「サントピア」となったホテルのある山に点在する古墳群。
駐車場付近に移築も含め数基が見学出来るよう整備されていますが、その南方にも数基があります

金子10号墳(秦大ぐろ古墳)...南東に長く延びる尾根端に位置する墳頂56mの前方後円墳
10P7303702.jpg
後円部径30m 径5m

墳頂には祀モノ
10P7303703.jpg
↑クリック 三角点もあり(^^;

後円部中央にある盗掘痕。このサイズだと石槨か箱式か?ピンポイントで当てられてますな
10P7303704z.jpg

北から前方部端
10P7303709.jpg
↑クリック くびれから前方部...前方長25m 幅17.5m 高4m
それほど古い形状ではない!



金子12号墳(?)...10号の北の尾根端に15m*4mほどの墳墓
12P7303699z.jpg

墳頂には10号同様の盗掘痕
12P7303697z.jpg



金子14号墳(秦上沼古墳)...12号墳の尾根の付け根あたりにこんな碑があります
14P7303695z.jpg
正確には「三角縁獣文帯四神四獣鏡」1931年に見つかって倉敷考古館蔵
ただこの14号、昭和初期に消滅。少なくともココは谷頭なので前方後円墳or前期円墳が位置する場所ではないです
西か南に50m以上ズレてると思われます。

背後にはこんな石碑もあるのですが・・・
14P7303696z.jpg
・・・楯築や宮山の立場が(^^;

今年になってこの位置より北北西~約600mの山頂付近に3基ほど前方後円墳が見つかってます(まだオフレコ)

↓ポイントは1号墳
■Point_Link by GoogleMap

分布図(10.12.14)
O_Futatuka.gif


  1. 2010/07/30(金) 15:00:00|
  2. 追記・補足
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:19
<<向山古墳群=追記 | ホーム | 粟井題目石塔(仮)>>

コメント

今データを見たら秦古墳群は3基撮っているけどアップしてないな。
まーこんな状態だしな(^^;)
(秦茶臼山古墳はこの群に入らないのかな)

こんな石碑も気が付かなかったな、それにしても吉備発祥の地とはなんとも大上段に構えたこと。
あちこちから文句が出そうだけど言った者勝ちか(笑)

今年になって前方後円墳3基も発見w(゚o゚)w
どういう事情で発見されたんだろ、開発でもなさそうだし。
でもオフレコ情報書いていいの(^^;)
  1. 2010/08/05(木) 12:45:33 |
  2. URL |
  3. 平家蟹 #-
  4. [ 編集]

あっちゃんにこのブログ教えていただきました。ありがとうございます。やっと自分の見たとこが、おおぐろ古墳だと自信がつきました。西に円墳がありますね。次回ここ尋ねてみます。3つの前方後円墳発見とのこと、どのあたりでしょうか。???
  1. 2010/08/06(金) 08:23:55 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

>平家蟹さん

結局最近“秦古墳群”ってのは金子側に統合されちゃったようで(総社はコレをよくやる)
茶臼山は独立して蚊帳の外のようです。

ココが吉備國の・・・ここまでくれば微笑ましいですが<をぃ
幸い、あまり人が来ないところのようですし、ま、私有地に何を立てようが勝手ってところでしょう(^^;
でも、真に受ける人がいたらどーする?!
これぞ『教育委員会』の仕事だと思うのですが。。。

新規前方後円墳は正確には2.5基かな?
1基は既知のモノで場所誤認だった可能性もありとかなんとか(笑)
そろそろ次が出てきてるかもしれないし・・・
発表の機会が無いからオフレコなだけですので大丈夫です(きっと)

事情は・・・現在植林作業ちうにて~
  1. 2010/08/06(金) 08:42:11 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

>kenさん

この時期、雑木林の中の盗掘済み抜け殻円墳見てもつまらないので
とりあえず『金子石塔塚古墳』をお薦めします。
特A級ですよ・・・ある意味『こうもり塚古墳』より凄い!

新規前方後円墳はサントピアから北に登る道
(入り口にチェーン張られ進入禁止)をただひたすら登った山頂付近です。
地図読めないと遭難しかねないので気をつけて下さい(^ ^ゞ
  1. 2010/08/06(金) 08:51:03 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

秦地区はなんと言っても金子石塔塚古墳が群を抜いていますよね。地図音痴の僕でもちょっと迷っただけで割りと楽にたどり着けました。かまどねこさんの作られた地図があれば大丈夫です。
  1. 2010/08/06(金) 21:28:24 |
  2. URL |
  3. あっちゃん #-
  4. [ 編集]

>あっちゃん

やはりこの時期、穴に入って“冷んやり~”したいものです。
その意味ではさすがに『こうもり塚古墳』より劣りますけど(^^;
  1. 2010/08/07(土) 06:18:29 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

秦おおぐろ古墳は、盗掘済みで中身は「空っぽ」ということでしょうか。そうなら、発掘しても意味ありませんね!?

早急に金子石塔塚古墳に行ってきます。
  1. 2010/08/07(土) 09:49:50 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

>kenさん

盗掘されても当時の盗人が価値有りと思うモノしか持ち出してないでしょうし、
主体(石室や棺)の外側にも副葬品は供えられてることもあるみたいですから、
まったく「空っぽ」ということもないでしょうけど……少なくとも棺は荒らされてますよ、ココ。
埋葬部が浅かったようで、上から杭とかでズブズブ刺して「あ、ココだ!」でソコだけ掘った感じ。
深ければ無事なこともありますが、ならばもっと墳頂が荒れているかと。<さんざん掘ったけど見つからず諦めパタン。

そもそも14号の神獣鏡が1931年、残念ながら戦前はもちろん60年代くらいまでこの近辺はほとんど無法時代(T_T)。
銅鏡が出たなんて噂が立つと「2匹目のドジョウ」探しをするのは寧ろ自然かと。
しかも如何にも古墳の形でド~ンと在るわけですから、
たとえそれまで無事だったとしてもこの時期悲運に遭ってるでしょうね。
…ってか、14号から神獣鏡云々なくても、この立地で未盗掘なんて奇跡に近い(^ ^ゞ

片や、後期古墳は「空っぽ」になっても石室が拝めますから(^_^)
  1. 2010/08/08(日) 06:04:00 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

くわしい説明本当に勉強になります。ありがとうございます。
なにか「出る」可能性30%と見ました。

金子石塔塚古墳は、ぜひいきます。明日薄暮攻撃に行きたいと思います。日中は暑いですから。v-285
  1. 2010/08/08(日) 08:17:16 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

ほぼ100%なにかは出ますが「おーっ!」ってものが出る可能性は極めて低いでしょうね。
こんな盗掘痕があると大学関係の方も掘りたがらないようです。
予算は有効に使いたいですから(^^;

残るは……この地を造成して何か押っ立てるとかなれば、市の調査隊が入ります。
ただそれは古墳が消滅するときなので喜ばしいことではありません。

>薄暮時
マムシに気をつけてください
  1. 2010/08/08(日) 08:47:21 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

行ってきました。古代史コミュに記事のせました。
中山の古墳少しは入りましたが、石積みが雑なように思いました。ここのは、きれいですし 石が大きいと思いました。やはり 秦氏のご先祖の方と思いました。
  1. 2010/08/09(月) 20:15:02 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

中山の石室は表面を平たくしにくい石材をつかってるので一見雑に見えます。
いや、実際雑でして(笑)……破壊を受けてなくても埋没・墳丘流失が多いデス。
中山茶臼山や車山ができた頃はともかく、6世紀以降はダメダメ&古墳密度も極めて低い。
強いて云えば謎の竜山石の石棺片が多いけど、これとて港が近かったというだけかも知れませんし。

でもそうやって石積みを見比べられると、この先いろいろ楽しめます(^_^)

金子石塔塚古墳の被葬者ですが、、、もちろん判りません。
ただ通説ですが・・・特に大物古墳の場合、必ずしもそこに古墳があるからといってその地の人とは限りません。
西奥古墳群(仮)や北奥古墳群(仮)程度の小規模群集墳なら地元民なのでしょうけど
吉備では超ブランド品の波形石@井原の石棺があることからしてタダモノではないと思われ・・・
築造当時、そんな人が長であったであろう“工業都市”はあの地より数㎞西だったりします。
参考までにこの古墳、西暦だと585年±10あたりかと<私説(笑)

そのあたりの時代背景とかも加味しながらいろんな可能性を妄想するのもまた楽し♪
  1. 2010/08/10(火) 00:58:40 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

古墳初心者なもので、一言一言が大変勉強になりうれしいです。

“工業都市”はあの地より数㎞西 ⇒ もしや「矢掛」? これって下道氏の地盤ではないでしょうか? 秦氏の宮司さん(九州)から、下道氏は「秦氏」であると伺ったことあります。

参考までにこの古墳、西暦だと585年±10あたりか ⇒ とすると、天皇でいいますと

敏達天皇(572-585)
敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立すると言う構図になっていた。

用明天皇(585-587)
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)は、物部守屋と蘇我馬子がそのまま引き継いだ。

崇峻天皇(587ー592)
物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。

推古天皇(592-翌年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。628)

あたりですか~~

大和中央では、仏教導入勢力が力を増して、寺院が作り始められた時代ですね・・・。
総社市秦の秦原廃寺もこの影響を受けたと考えれば、この古墳は「最後のすごい古墳」なのかもしれませんね!!!

  1. 2010/08/10(火) 17:07:53 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

さすがに矢掛では距離がありすぎで・・・ほんの3kmほど。

現在も工業団地ですが、あの辺りは古代吉備→製鉄の國と知らしめた“コンビナート”があったとされています。
古墳時代後期に限らず、この一帯の中心はずっと久代~新本~山田ラインのようですよ。
全体を見れば“その地”の位置づけも判ってくると思いますけど、、、
残念ながら氾濫の度に山際まで高梁川は迫っていたでしょうから現秦地区にそれほど人が居た形跡はありません(^^;
(横穴に適した谷部を探索すれど古墳の気配無し<大窪寺の奥&天神社の奥)
よって金子古墳群の主は南側の上原~富原あたりが順当かもデス
(この場所からなら大ぐろ古墳は望めます。近すぎると見えない(^ ^ゞ ※後期古墳は見えなくてもいい)

なおココは吉備の國なので“中央”の年号等にはタイムラグがあります。
なんせ総社と矢掛にだってその差は認められますし~要は流行り廃り(^^;

ちなみに金子石塔塚古墳は最後ではなく「絶頂期」の横穴式石室墳で、かの真備~箭田大塚古墳よりも先行。
この地の「最後のすごい古墳」は長砂2号墳でときはすでに飛鳥。
  1. 2010/08/11(水) 07:23:31 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

わかりました。西団地ですね・・・。一度お邪魔したことあります。ただ、びっくりしたのは・・・この西団地のすぐ東に「牛頭天王神社」がありますね。本当にびっくり。今牛頭天王のこと調べていたものですから。近々ここ行ってきます。関係者に見つからないようにこっそりと・・・。


久代~新本~山田ラインが、メイン。了解しました。この線重要なのですね。地形的にも高台なのでしょうね。

薬師寺さんの著書では、秦原廃寺(規模でかい)は古墳後の大和からの寺院文化受容の最初の地では・・・との話もあり 寺があるかぎり周囲に住民もいたのでは~と勝手に思っております。

上原は、上原上人(陰陽師)がいたとこなので、大注目しているのですがまだいってません。屋敷跡があるそうなので今度是非行ってきます。

年のタイムラグ了解しました。文化の伝播を考えると、数十年見ておいた方がいいでしょうか。ただ、吉備と大和の異常なほどの親密さからみて、10年なかったかもしれませんね。

この地の「最後のすごい古墳」は長砂2号墳・・・やっぱりここすぐいのですね。あっちゃんの話では、相当むつかしいルートらしいので、しばらく保留にしておきます。
  1. 2010/08/11(水) 18:40:29 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

久代・板井砂奥製鉄遺跡・・・古墳も製鉄炉もそれぞれ60基以上在ったようですが造成で一掃されたので
西遺跡公園に移築された1基の後期古墳とレプリカ製鉄炉&炭窯くらいしか見ることができません(T_T)

>寺院文化受容の最初の地では
例によって根拠が判らないのですが?・・・まぁそうだったとしましょう(^^;

だったらだったで歓迎されたのでしょうか?
新しい信仰なんてそうそう受け入れられるものでもないのではないでしょうか?
まして他所から“造れ”なんて言われてもねぇ(^ ^ゞ
そこには代々続いてたものがあるのです。もちろん古墳もそのひとつ。
その神聖な場所にそんなわけわからん『寺院』なんて建てられますか?(笑)
(適地にはすでにことごとく古墳が築造されてる)
挙げ句、僻地に追いやられる・・・そんな図式も考えられますよね(^ ^ゞ

上秦辺りにいちおう遺跡は確認されてるようですが、
住居跡とかは1年で終わった集落でも残りますし年代等詳しいことは判ってないようです。
6世紀後半~7世紀、新本川流域の古墳適所は石室墳が所狭しと犇めきあってます。
西団地なんて北向き斜面ですから本来古墳適所とは云えませんがそれでもワラワラと(^^;
(最多地区は支流のハザ谷川流域)
片や適所があるにも関わらず秦の東側麓にはなぁ~んにも無いのです。

タイムラグもそうですけど、歴史書なんかからはローカルな民衆の心理が見えてきません。
『わしらにはわしらのやりかたがある』そんなおっさん、いつの世にも居ります(笑)
今以上に、右向け右ってわけにはいかなかったでしょう。
古墳なんてもうやめなはれ……と言われても、ゆ~こと聞かなかった“英雄”が矢掛や北房にはおりますし(笑)

長砂2号墳・・・秦大ぐろ古墳なんかに比べると全然楽ですし、
私は“恵まれ”ませんでしたが不思議と案内人が現れることが多いようですよ(^_^)
  1. 2010/08/12(木) 07:50:01 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

いうこと聞かないおっちゃん・・・ものすごく興味がわきました。大興奮です。鼻血ものです。(笑)
中央で、仏教導入で血で血を洗う抗争を演じた蘇我氏と物部氏ですが、物部氏が敗退します。偉い学者さんの実地の考証で物部氏って北九州から大和まで幅広い勢力をもっていたそうです。

そのおっしゃられる「おっちゃん」 単細胞の私は、物部氏系かもしれないと思いました。矢掛・北房ですか・・・。物部との関係見てみるとおもしろいかもしれません。ちょっと調べます。ありがとうございました。

それと、秦東にはな~~んにもなし。とのことです。

秦小学校のHPにこんなこと載せてます。
http://www.hada-es.soja.ed.jp/index.html
(校区の特色 - 歴史の深い秦地区)
秦小学校の校旗に描かれている弓と月。これは,秦の地域の歴史と深い関わりがあります。「秦」の字は「秦の始皇帝」で有名です。「秦」の字は「はた」とも読み,もともとは中国から渡来してきた「秦(はた)氏」がこの地に住んだのが名前の由来となっています。学校の校旗に描かれている弓と月はこの中国から渡来してきた「ゆみづき氏」からとったものです。

弓月君がきたのは389年(応神朝)ですから、古墳時代まっさかりですよね。造山古墳は応神天皇のか(薬師寺さん)とも一部で言われています。

この秦地区東麓に、な~~んにもないということが、本当に不思議です。この謎が重要なことなのかもしれません。

でも 私立の学校ならまだしも 公立の学校で ここまで歴史に踏み込んだこと書けるって やはりこの秦地区の人は 強烈な郷土意識もっているとしか思えません。関東のネットの友人に紹介したところ「考えられない」と言っていましたから・・・。
  1. 2010/08/12(木) 09:49:46 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

いや、別に◎△氏ぢゃなくても、そーゆーおっさんはいつの世も、どこにでも居りますってば(^ ^ゞ
第二第三の都市で長をやってたりするとなおさらね(笑) ※第一は吉備路近辺

ところで『秦』って地名はいつ当てられたんでしょう?
古墳時代に文字は倭国に蔓延っていません。
だから何もわからないのです。だから考古学なのです。
もちろん、それぞれの地に“呼び名”はあったでしょうし発音は同じだったかもしれません。
面白いことに西に『ハザ谷川』があります。
そう……未だに漢字が当てられていません。
ハザなんて漢字、思い浮かびませんからね(笑)
ハザとハダ、なんか似てると思いませんか(^^;

それはともかく、一度遺跡地図もご覧下さい。
「総社市埋蔵文化財学習の館」へ行けば見られます(入館無料)
で、東側~秦地区の寂しさは際立っております。
もしかしてこれは調べてないから?・・・と疑念を抱き
未知の古墳がそこにはあるかもと期待して訪れたのですが、気配すら無しorz
でも堤防の無かった当時の高梁川を思えば、それはさほど謎にあらず。

私はもちろんシロートですが、物的痕跡から当時の人たちが何考えてたんだか?
どうして&どうやって巨大な古墳なんて必死に作り続けたのか…どんな世界がそこに広がってたのか?
そんなことが垣間見られたらとやっております。
それに限らず本当のコト、知りたいですよね(^_^)

“強烈な郷土意識”おおいに結構ですけどその痕跡が無いんです(いまのところ?)
伝承なんて誰かの思いつき(作り話)が発端だったりもしますし……それを歴史とは言わないでしょう。
思いつきで最古級の古墳にしてしまい“古代吉備国発祥の地”になってしまった例もありますし(汗
※10号墳はその形状・築造場所からしてそんなに古くもないし、この近辺から特殊器台どころか埴輪すら出てない!
 14号の神獣鏡とて1枚のみで築造時期特定は強引。

想像、妄想も何か土台となる根拠があって初めて仮説になります。
そこんところは大切にしたいものです。
  1. 2010/08/13(金) 05:05:58 |
  2. URL |
  3. かまどねこ #YZygDJcY
  4. [ 編集]

「想像、妄想も何か土台となる根拠があって初めて仮説になります。」 これ、『至言』だと思います。 自戒自戒です。 空想にならないようにいたします。すぐ飛んでしまいますので・・・。

1.「総社市埋蔵文化財学習の館」へ行ってまいります。(現状の把握・・・QC活動みたいですね)(笑)

2.ハダ・ハタ

『姓氏家系大辞典に見る秦氏』(太田亮編)より

(1)秦、ハタ、ハダ、天下の大姓にして、その氏人の多きこと、ほとんど他に比なく、その分枝の氏族もまた少なからず。しかして上代より今に至るまで、各時代共、常に相当の勢力を有することも、他に類例なかるべし。

(2)上代姓氏(古いもの)
朝原・依智秦・依智・太秦・太秦公・大蔵・大蔵秦・葛野秦・香登・加味能・河勝・惟宗・桜田・宗・高椅・高尾・時原・寺・秦・秦下・秦許・秦子・秦部・波陀(はだ)・秦姓・秦冠・秦大蔵・秦佐比佐・秦物集・秦田村・秦川辺・秦倉人・秦前・秦常・秦高椅・秦達布・秦中家・秦人広秦・秦長蔵・秦長田・秦井手・秦小宅・秦原・広幡・物集・三林・令宗・井手・川辺・倉人・達布・中家・長蔵前・常・原・小宅・長田 ・・・等

☆わたし、地の人間じゃない(大阪)ので細かい名前しりませんが・・・、「川辺」(橋)って近くですよね。「朝原」も福山の近くにあったかな? 

(3)来朝時期

この氏族は、伝説によると、応神天皇(AD270-310)の御代、弓月君(AD286)という人が、既に率ゆる120県の百姓を伴って帰化したということになっている。(応神紀・古事記・姓氏録)応神紀は120県、姓氏録は127県とも、または27県とも伝えている。その後、雄略天皇(AD456-479)の朝、小子部の雷に命じて調べさせたところ、92部、18,670人あったといい(雄略紀・古語拾遺・姓氏録)、次いで欽明天皇(AD539-571)の朝には、「秦人戸数惣7,053戸」と日本書紀に載っている。

☆家内の実家は総社ですが、おばあちゃんは、「はだ、はだ」と言っています。

☆『ハザ谷川』は、ちょっと調べてみます。

☆今、秦徐福のこと調べているのですが、なにか発見ありましたら、ご報告いたします。弓月君は?だそうです。

3.薬師寺教信者
「10号墳はその形状・築造場所からしてそんなに古くもないし、この近辺から特殊器台どころか埴輪すら出てない!」⇒これ秦おおぐろ古墳のことですね。考古学ど素人なもので・・・薬師寺さんの本に舞い上がったのですが・・・。「最古かもって」(笑) 場所的には、サイコーの景色ですし・・・まだ未練持ってます。e-445
  1. 2010/08/13(金) 18:15:59 |
  2. URL |
  3. ken #-
  4. [ 編集]

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